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『私の生い立ち』 宮地重遠

宮地先生誕生

はじめにまずひと言、敢えて釈明致しますが、自分が自ら進んでこの様なものを書くことになるなどという考えは、実際のところこれまで、毛頭もなかったことなのです。
ところが最近、なぜか私にこの様なものを書かせたがる人が身辺にいるもので、渋々ながらも忘れていた記憶を呼び起こし、仕方なくそれらを書き留める決意をした次第なのです。

宮地先生が誕生された日本橋の生家付近

私は1930年5月、日本通運勤務の父駒四郎、歯科医師の母テルとの嫡男として誕生致しました。
生家は、日本橋三越の前に現在もある大和屋鰹節店の裏に在りました。
母は、歯科医の仕事のかたわら、近隣の人々の悩みの相談相手になっており、日夜多忙な母は、当然私などかまう暇など無かったので、私は物心がついた頃には、子守の目を盗んでは一人三越店内を駆け回り、今日でも表玄関入口のシンボルになっている、英国からはるばるやって来たというライオンを見ながら、こども心に乃木大将に夢を馳せておりました。
そしてそれはきっと、母からいつも聞かされていた、母方の祖父の話が影響していたからなのかも知れません・・・。

現在ある三越前

母方の祖父の吉良熊吉は、1904年開戦した日露戦争に2等兵で出征し、わずか一年で准尉で帰還したという、6階級特進の類稀なる人物で、帰国後は実業界に進出し、これまた金鵄勲章受章を武器に、多大の財をなしたという立志伝中の人物でした。

203高知 大日本帝国陸軍使用の大砲

私は、この人物が何故そんなに出世したのか、よく母に質問したのを覚えています。
すると母の答えは決まって、次ぎのようなものでした。

「勇気だけではだめ、頭だけじゃだめ、ヒユーマ二ズムなの。どんな時でも人間を愛すると言うことなの。お祖父さんはね、昼間の激しい戦いで亡くなった戦友の亡骸を、毎夜収集に出かけたの。すると相手のロシア兵の一人もやはり戦場に来ていたの。そのうち敵味方を乗り越えて二人はお互いに認め合い、やがてタバコの交換さえするまでになったんだけど、いつしか相手は戦死したのか来なくなり、日本軍も総攻撃をすることになったのね。だけど敵方とのそんな毎夜のやり取りの中にあっても、お祖父さんは203高地の攻撃を阻んでいるのは、頑丈な鉄条網のせいだと見ていたのね。だから総攻撃の前夜、お祖父さんは密かにそれを切って置いたの。やがて日本軍は大勝利、御祖父さんの大手柄・・・」
この話をする時、母はいつも得意そうでした。

三越本店ライオン
しかし、私にとってはそんなにえらいお祖父さんとは無関係、三越本店の屋上のライオン(その当時、生きたライオンもいた)を一日中眺めては日を送り、当時待合室に客のために置かれていたビスケットを山盛り食べては時を過ごしたりしましたし、またあの有名な白木屋の火事にも、子供ながら遭遇していたのです。
ところが、こんな都会の殺伐とした環境と危険な日々から子供の私を脱出させるための、母の次なる一手は、実に巧妙なのでありました。
・・・が、それについては、また次回にお話しすることと致しましょう。
                            つづく