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以上

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~自宅は日本橋、母は当時珍しい女性歯科医

昭和5年5月6日、本郷の順天堂病院で、父駒四郎、母テルの長男として生まれました。父は日通の法律担当社員で、母は歯科医として日本橋本店前の自宅で開業しておりました。

古い保守的な土地の人々には何代も前からのかかりつけの医者がいて、しかも当時珍しい歯科女医であったことから、開業当初は患者が来なかったようです。
しかし、祖父の援助を受けながら開業を続けた結果、細やかで丁寧な治療が徐々に評判になり、歯科医師の本業だけでなく、近所の人々や患者たちの様々な問題の相談に乗るまでになりました。

~父のドイツ語

日本橋は土地柄、大銀行や大企業の役員が多く、母はその人たちの相談にも乗るなどして、多くの人々に信頼される存在でしたが、それに比べ父は寡黙な人でした。
父が帝大で学んだドイツ法は、日本の目指す法律と方向が違うこともあって、日本ではドイツ法はあまり役に立たなかったのかも知れません。

とは言え、父はドイツ語を得意としていてそのレベルも高く、日頃ドイツ語の書籍を読み耽る父からドイツ語で質問を受けたりすると、私も大学でドイツ語を学んでいたとは云え、うまく答えられないほどでありました。
私がどちらの血を受けついだのかは分かりませんが、両親とも自分の好きなことに熱中して人生を楽しんでいたところは、やはり似ているように思います。

~「重遠」の名の由来

宮地家の男子は代々、名前に“重”の名がつけられておりますが、私の「重遠」の名は、父が法律の専門家であつたため、日本家族法の父、穂積重遠氏に因んだとされているようなのですが、穂積重遠氏の父上は帝大法学部教授の穂積陳重氏であり、やはり我々と縁の深い愛媛県宇和島の出身でもあることから、そのことが一層、父の命名の際の後押しになったと思います。  
いずれにしても父は、私を自分と同じ“法律家”にしたかったのかも知れません。

~「宮地姓」の由来

宮地姓は、神社の境内や社地などの意味合いから神社と関わりが深く、幡多郡黒潮町の小さな神社の神主をしておりました。
しかし、母方の祖父であった「宮地 適(かのう)」は一念発起、神に仕える身を人に仕えるべく、大阪で丁稚奉公をしながら独学で医者になりました。
ちなみに、独学で医者になった日本人は、これでにたった2人しかいないそうです。

祖父の宮地適には後継者が無く、母が親戚から養女に入りました。

~多忙な母、寡黙な父

母は戦争まで日本橋で開業をしておりました、父は寡黙な人で、ごく稀に連れて行かれたハイキングでも大股で一人先を歩き、幼い私にはついて行けませんでした。
 
しかし、父はその当時はまだ珍しいスポーツテニスの名手だったらしいのですが、一度も
コートに連れて行かれたことが無く、真偽の程は判りません。

そんなわけで私には、多忙であった母や寡黙な父から、躾や教育をされたという記憶はありませんでした。

~“放浪癖”と“ねえや”

幼い頃の私には“放浪ぐせ”があり、一人で出歩くことを危惧した母は、あらかじめ交番や近所の商店に手を回して、私のことを監視して貰っていたようです。

しかし、それでも目の届かないところまで出かけてしまう私に不安を感じたのか、“ねえや”をつけてくれたのです。

私はそれをいいことに、今まで一人では出入り出来なかったところへ自分を連れて行くようにと、“ねえや”を相手によくねだったようなのです。

~百貨店の火事と屋上ライオン動物園

というわけで、まず“ねえや”を伴ないよく通ったのは「百貨店」でありました。

実はその2~3年前に、あの有名な白木屋の大火があったのです。
私にとっては、火事のことはかすかに覚えている程度でして、あの火災を機に、百貨店の女子従業員の和服が洋式の制服になったとか、非常口の確保に留意したとか言うことのようですが、私が一番がっかりしたのは、屋上に在った「ライオン動物園」が無くなったことでした。
火災の際に屋上に逃げた人々に驚いたライオンが暴れだしたことが、その原因だったようです。

~百貨店のビスケットで腹ごしらえ

その後、百貨店の来客に対する気の使いようは大変なもので、三越百貨店などでは入り口の待合室に、誰でも食べられる“ビスケット”が置かれていたものです。

私は毎日そこで腹ごしらえをしては、その後、店内見学をしたり、日本橋から銀座辺りまで遠征するのを常として、今、考えるとお供をさせられた“ねえや“は、毎日大変な迷惑だったのに違いありません。
それもこれも、時折、お供の“ねえや”を振り切り、一人で放浪する手に負えない子供に対して、とにかく私の母は手を焼いていたのだと思います。

~祖父の上京・・・母の巧妙な仕掛け

そんなわけで、私は幼稚園に上がる前に、愛媛県八幡浜の祖父の家に預けられることになったのです。  
東京のど真ん中、日本橋や銀座で楽しい幼少時代を満喫していた私が、そんな田舎に行くことを了承する筈が有りません。
ところがそこで、母が考えた巧妙な仕掛けに図らずも乗ってしまうことになるのです。

と言うのも、或る日、何故か四国から祖父が、はるばる上京して来たのです。

~欲しかった自転車が・・・

いつも気難しい祖父がニコニコしながら、『シゲトウ、何か欲しいものがあるか?』

私は毎日の百貨店めぐりで、大体の“欲しい物リスト”が出来上がっていましたから、即座に、何階の何処そこにあるあの自転車が欲しいと答え、祖父はそれをたちどころに買ってくれたのです。

~3日がかりで愛媛県八幡浜へ

翌日、『四国に帰るけれど、一緒に行かないか?』という祖父の問いに、何でも買ってくれるこの祖父の誘いを断る理由は何もありません。
私の答えは即座に、“ハイ、行きます!”でありました。

これで私の“四国行き”が決まりました。
その当時は、汽車を乗り継ぎ、船やバスを使って3日位かかりました。
その後の交通事情の移り変わりから、東京からの所要時間は1日1日と短縮され、四国までたった1日で行けるようになった時の感動は、今でもはっきりと覚えています。

~黒潮の海と幸せな日々

八幡浜の海は、私が今まで見たことのない色をしていました。
群青色というのでしょうか・・・その海を囲むようにみかん畑が迫り、打ち寄せる波が白く輝いていました。
また黒潮の影響で東京の冬より暖かく、親元より遠く離れた寂しさなど、私にとってはまるで“何処吹く風”でした。
祖父が医者だったため、診療所には看護婦さんがいて、母親代わりになって私の面倒をよく見てくれました。
美しい自然とやさしい人々に囲まれ、祖父の配慮もあって、とても幸せな日々を過ごしました。

~またまた“持ち前の好奇心”が・・・

環境に慣れてくると、またいつもの好奇心と放浪癖が頭を持ち上げてきました。
何故、土の色が東京と違うのだろう?
打ち寄せる波の大きさは、何故それぞれ違うのだろう?
沖の海は黒いのに、浜辺の方の海は何故青色なんだろう?
ここの人たちの言葉は、何故東京と違うのだろう?
蝉の鳴き声が違うのは、何故・・・?
この何故、何故、何故で1日が終わり、また新しい“何故”に夢中になるのでした。

~祖父の蔵書

そんなある日、祖父の書斎のドイツ語の蔵書の中に漢字ばかりの古い本を見つけました。
普段見慣れている平仮名の本と違う本に、好奇心のかたまりが頭をもたげ始めました。
祖父に『この本は何故、漢字ばかりなのですか?』
この質問に、祖父は満面に笑みたたえながら、始まったのが“孝経”の講義だったのです。

~祖父の配慮?・・・「孝経」

“孝経”というのは、孔子の言動を後年、弟子達が記したものらしいのですが、「身体髪膚 受之父母 不敢毀傷 孝之始也」に始まり、社会に出て世の中の人のためになり、成功するのも親孝行であるとする・・・これは親元を離れている私に、親の有難さを忘れるな、という祖父の配慮でもあったのでしょう。

~難行苦行の漢詩、漢文

とは言え、幼い私にはこれらは難行苦行、特に漢文などはまるでチンプンカンプン。
しかしそれでも祖父は私に向かって、1日も休まず色々な漢文や漢詩の講義を続けてくれました。
“親孝行”についてはそんなに出来なかったのですが、この漢文や漢詩との出会いは、その後、学会などで中国を訪れた際に、何故か懐かしくその頃のことを思い出させてくれたのです。

~祖父が選んでくれたキリスト教会の幼稚園

私の通っていた幼稚園は、当時珍しいキリスト教会附属の幼稚園でした。
我が家はキリスト教ではなかったのですが、それは教育熱心な祖父が選んでくれた幼稚園でした。
園長先生は、祖父と同じ貧しい人の救済活動に力を入れていた方で、メソジスト系の教義とほかの教義とはどう違うのかといった、普通の幼稚園児には話さないようなことを話してくれました。

~『施し』という教え

園長先生の話しは、私にはさっぱり分からなかったのですが、ただその中で子供ながらに何となく理解できたのは、『施し』ということです。
この時のこの教えに対する理解もまた、後に学会でイスラエルを訪れた際、現地のガイドが私に一目置いてくれる理由ともなっていたようです。
たとえ幼い子供であっても、一生懸命に伝えようとさえすれば、子供もまた必死に理解しようとするものなのだと、この時改めて痛感したのを覚えています。

~海を見下ろすミカン畑、そして自転車

八幡浜でも放浪癖は健在でした。
みかんが黄金色に色づくと、何故みかんは色が変わるのか? 
みかん畑は海を見下ろす小高い丘の上にあって、更にその丘の向こうには、一体何があるのだろう?
或る日、私は新しい自転車に乗り、みかん畑の丘の頂上を目指しました。
自転車を降りて急な丘の坂道を登り、頂上から見渡すと、先の先まで、やはりみかん畑が
連なり、ふと振り向くと夕日が海に沈もうとしていました。

~坂道の先は海に面した絶壁・・・!

急いで自転車に乗り、急峻な坂道を猛スピードで駆け下りたのですが、この子供用の自転車にはブレーキがついていなかったのです。
下りの坂道の先は海に面した絶壁になっていました。今までに乗ったどの乗り物よりも速く、自分では制御できない何処かへ連れて行かれる恐怖で、子供心に「どうかしなければいけない」という思いから咄嗟に考えたのが、道の脇に続く“土手”の存在でした。
やむなく土手に向かって思い切り自転車ごとぶつかった途端、小さな体と自転車は宙を舞い、私は気絶してしまいました。
但し、この判断を幼児が咄嗟にしたということを、私としては今でも、我ながら自分自身に感心している次第です。

~健気な幼心と初の挫折

自転車は当然大破したものの、幸い通りがかりの人が見つけてくれて、私共々、担いで家まで連れ帰ってくれました。
祖父からは、その事件について何か言われることはありませんでした。
多分、命に関わるほどの怪我は困るでしょうが、男の子はそのくらいの元気があった方が良いではないかと、祖父は思っていたのでしょう。

その後、自転車は修理され、私はまたブレーキのない自転車を一段とうまく乗りこなし、相変わらずの冒険放浪は続きました。

しかし、幼稚園の園長先生や祖父の教え、また命をとりとめた事故などの影響もあってか、幼心に「難しいバイブルを、誰でも読める平易な書物にしよう」という思いから、何とか書き始めてはみたものの、1ページ書いたところで幼稚園児は、初の挫折を体験したのです。

~ライト兄弟よりも早く飛行原理を発見していた「二宮忠八」

祖父の医院は、ライト兄弟よりも前に飛行機の原理を発見した“二宮忠八”が飛行訓練をした浜辺に面したところにありました。
二宮忠八と言う人は、1889年に『飛行器』を考案した人物で、飛行器の“器”という字は彼が当初から使っていたものです。
その翌年(1890年)、ゴム動力の『模型飛行器』を製作し、『軍用飛行器』として軍に提案したという、八幡浜出身で日本の飛行機史上に残る人です。
彼の有人飛行機の提案は軍では採用されなかったのですが、現在では英国王立航空協会に彼の模型飛行機が残され、ライト兄弟よりも早くに、「飛行原理」を発見していたと記されています。
この郷土の偉人も困窮の中、独学で物理学や化学の本を読み耽ったということです。

~独学で医者になった祖父の偉大さ

私の祖父も、独学でドイツ語や医学書を学び、医者になった人です。
医者としては、非常に腕がいいと評判の人でした。
或る日、トロッコに轢かれて腕がつぶれてしまった患者を医院に担いで運びこみ、何時間もかけて一人で、骨と神経をつなぐ手術を施しました。
その後この患者は、傷跡は残りましたが、出兵できるまでに回復したのです。
最近、同じような記事が新聞に出ているのを見て、こんなことは祖父が何十年も前にやっていたのを思い出し、改めて祖父の偉大さを認識致しました。

~祖父は内科医

祖父は内科医でしたが、このように外科手術も行い、自分の母親の眼球の摘出手術もこなしました。
最初は産婦人科をやりたかったらしいのですが、医療機材などに費用がかかるため、初期投資のかからない内科医にしたらしいのです。
医者としての勘が良く、夜中に、いつも見ていた患者さんの容態が急変したと往診に呼ばれても、『もう2時間もすれば亡くなるから、診ても無駄だ』と言って、まったく動こうとしない時もありました。
患者の家族に対しても、覚悟をしておくように言い置いたりして、普段から診続けている相手であるにも関わらず、家族の気休めのためだけに駆けつけて上げると言うようなことは絶対になくて、無駄な事はまるでしない徹底した人でした。

~祖父と漢学の素養

前にも述べましたが、祖父は医師としてだけでなく、大変教養もある人で、とりわけ漢学の素養がありました。    
家には、四書五経を筆頭に漢籍なども沢山あり、私は幼いなりに漢字というものが面白く、折にふれて漢文の本を見せて貰いました。
当然、漢字は分からないものばかりでしたが、熱心に聞き入る私に対して、祖父は丁寧に教えてくれながら、私のために何度も読み返しては満足していました。

~祖父のドイツ語

医者である祖父のドイツ語の知識は凄いものでした。
しかも独学で学んだと聞かされていたので、ドイツ語の本の中に見つけた絵図についての私の質問などにも即座に答えてくれるのには、いつもながら感心させられておりました。

~祖父の信念と様々な事業

ところで祖父は、貧しい人を真に救うには、物を与えるだけの施しだけではなく、働く場の提供こそが本当の意味で救いになるという信念から、いろいろな事業をすることになったのです。 

~元祖「愛媛みかんジュース」の誕生

例えば竹細工の工場や、今では全国的に有名になった「愛媛みかんジュース」を、最初に商品化したのも祖父の功労です。
美味しいみかんほど、最初はよく売れますが、日持ちがしないのです。
そこで、腐ってしまったみかんを何とかしようとしてジュースに加工したのが、「愛媛みかんジュース」の始まりであったようです。
私はよくそのジュースを飲まされたのですが、最初の頃はまずかったものの、次第に美味しくなっていったのです。
しかしながら、この成功の陰には、他に沢山の失敗があったのです。

~毎日“すき焼き”

新し物好きの祖父は、外国の食生活に関する知識から、“肉を食べて良質のたんぱく質をとらなければならない”と考え、人を雇って肉屋を開きました。
しかし、海辺で魚がいくらでもある土地柄で、わざわざ高価な肉など買う人はおりません。
結局仕方なしに売れ残りを我が家で引き取るので、毎日すき焼きを食べていました。
そういうと贅沢な話に聞こえますが、売れ残りの肉だったせいか、“生肉というのは臭うものなのだ”と、私はずっと思っておりました。

~牛乳、バター、シュークリーム

医者の見地から、魚ばかりでは栄養が偏るから、欧米人のような体格を作るためにと、酪農製品として牛乳を調達してバタ―を作ったり、シュークリーム等も作ったりしたのですが、これもその当時の漁村では受け入れられずに失敗でした。

~祖父の死と、冷静な父の一言

本業の医者の方は、貧しい患者からはお金を取らず、数軒ある金持ちの家から沢山いただく・・・という風でした。
祖父が亡くなった時、そうした治療費のいわゆる“つけ”については、もう免責とする旨を新聞広告に載せてはどうかと父に相談すると、『心配しなくても、払える者は既に払っているのだし、医者が死んだからと言って、急に支払えるものじゃない・・・』
冷静な父のそのひと言に、私は妙に納得したものです。

~もう一人の祖父について

私には祖父が二人います。
私の母は、私を育ててくれた医者の祖父の家に、親戚から幼女として入りました。
母の生家は宮地家の親戚筋の家で、大変優秀な家系だったようです。
その“母方の祖父”の名前は吉良熊吉と云い、しかしこの祖父は、優秀な家系の中では稀な、優秀でない子供らしかったのだそうです。

~二等兵から将校に・・・日露戦争で異例の大出世

そのために幼い時から丁稚奉公に出されて苦労したようですが、日露戦争に召集されたのが大きな転機になりました。
出兵した時は二等兵だったのが、終戦時では将校になって除隊したそうです。これは一番下の位から昇進していける最高位で、おそらくこの出世の速さは、過去に例を見ないのではないでしょうか? 
この大出世の秘密は、あの有名な激戦があった「203高地」での手柄によるものであると聞きました。
私も数年前、実際に現地に行って見ましたが、確かに難所であることを実感しました。

~日本を勝利に導いた祖父の密かな行動

この戦いが凄まじかったことは良く知られていますが、日本が勝利を収めることになったそもそものきっかけは、実は祖父の行動によってもたらされたものだったようです。
これはあの有名な乃木将軍が、何度も何度も攻撃を仕掛けるものの、味方に犠牲が出るばかりの毎日だったのが、祖父はそんな馬鹿なことはあるものかと、密かに最前線へと一人偵察に行き、総攻撃の前夜、203高地を堅く守っていた鉄条網を切ってしまったのです

~努力家の祖父

この勇敢な祖父は、ただ勇敢だけではなく、努力家でもあったようです。
というのも、家族の中では劣等生とみなされていたのと、早くから家を離れたこともあって、学校にはろくに行っておりませんでした。
そのため字が読めなかったらしいのですが、入隊後に命令書が読めないのは恥だと、猛勉強をして字が読めるようになったそうです。
つまりこの祖父も武勇だけの人ではなく、努力して自分の道を切り開き、除隊後は手広く商売をして大成功したのです。
後に私が東京に戻り、夏休みなど四国に戻ると、この祖父は町中を自転車で“孫が戻りました” とふれ回るので、近所の漁師さんやら農家の人が魚や野菜を持って来てくれ、嬉しいやら照れくさいやらで、少し憂鬱にはなるものの、この祖父にも随分と可愛がられたものです。

~弁当持参への憧れ

小学校は白浜尋常小学校、家から五分くらいのところにありました。
山を越え、何里も歩いて通う生徒達は、私のように昼食を自宅でとれないので、弁当を持参していました。当時の私はそのような事情に思いが至らず、毎日が遠足のような彼らの“弁当持参”を羨ましく思っておりました。

~体育に熱心な小学校

この小学校は体育教育に熱心で、当時としては日本で三本の指に入るような存在でした。
そのため全国からの見学が多く、その度に我々児童たちは駆り出されて体育演技をさせられることになるため、その日は勉強もせずに一日中“運動会”という、恵まれた学校生活(?)になることも度々ありました。 
ただその体育教育に関しても、難しいことは無理にはさせずに、やさしいことだけを繰り返しやらせ、全員が完璧に出来るようにするというのが指導方針でした。

~喧嘩ランキング1位

幼稚園時代は周囲に、多少の言葉の違いなどを気に留める子はいなかったのですが、小学校になると、さすがに私の東京言葉や持ち物が気に食わない子もいて、その子供たちの優越感と勝ち負けの物差しは、喧嘩に強いかどうかということだけでした。
今まで喧嘩などしたことのない私でしたが、どういうわけか「喧嘩ランキング」だけは常に一位でして、多分、他県から来た私の未知の潜在能力に、みんなは恐れをなしていたのでしょう。

~母が喧嘩の尻拭い

或る日、決闘を挑んできた子がおりました。
私にとって実際の喧嘩は初めてだったにも関わらず、結果は何と見事に勝ってしまったのですが、相手に怪我を負わせてしまいました。
更に悪いことに、その日は、滅多に来ない母が東京から来た日で、久しぶりに四国に帰った母の最初の仕事が、相手の家に謝りに行くことになってしまったのです。
相手の家から戻った母は何か言うこともなく、むしろ久し振りに親の役割を果たしたことに、密かに満足している風でさえありました。

~腕力と冷静さ

私自身は本来、“腕白”というタイプではなかったのですが、運動会などは大体が一等賞で、“東京者”に負けたくない地元の意地が、反則攻撃などを仕掛けては来るのですが、絶対的な自分の腕力への自信が、常に私を冷静に装うせいか、相手はいち早く恐怖を感じてしまうみたいで、決まってたちどころに退散してしまうのでした。

~助けてやったのに!

ある日友人が崖から海に落ちてしまったことがあるのですが、冷静な私は、何分くらい息がもつかを判断しつつ、長い竹竿を探し出して来て、無事に彼を助けたのです。
ところがその子は、私が助けてやったのにも拘わらず、自分は自力で這い上がったのだと上得意なので、真実を伝えない相手に、私は子供心に
怒り心頭、喧嘩になったこともありました。

~豪華弁当に魅かれて・・・

毎回、「郡の体育大会」の選手に選ばれておりました。
しかし私にとっては、この“大会選出”ということ自体の結果についてはどうでもよかったのでして、本当のところを言えば、代表選手に出される昼食の“豪華弁当”に魅かれての参加であったことだけをよく覚えています。

~牧野先生のこと

この当時の担任は牧野先生と云う方で、この先生には大きな影響を受けました。
子供たちに作文や俳句を作らせて新聞に投稿してくださり、幼い我々に作ることの喜びを教えてくれました。
同学年に先生の息子さんがいて、お互いに良い遊び相手でした。
よく日曜日などに山へ連れて行って下さったり、植物採集にも同行させて戴きました。
私の将来を決めた「微細藻の研究」は、このあたりにその萌芽が有ったかも知れません。

~お茶の水女子大出の祖母

この小学校時代、校長先生がよく祖母に会いに来られておりました。
祖母は当時としては珍しい、高松の師範学校を出てお茶の水女子大に学んだ人で、多分、校長先生は教育分野の大先輩に、教育方針などの相談に来られていたのでしょう。

~東京の親元へ

小学校卒業と同時に、東京の両親の元へ戻りました。
自分ではまったくそんなつもりもなく、小学校卒業後も当然のように四国にいるものだと思っていたのですが、思いがけず両親から、東京の武蔵高等学校尋常科を受験するように言われたのです。
私としては、四国を離れることに辛さはなく、むしろ両親の元で暮らせる嬉しさの方が強かったのだと思います。

~入学試験

武蔵高等学校尋常科は当時から有名で、試験も相当難しいといわれておりました。
特別な受験勉強をした覚えもなかったのですが、入学試験は実験用具の様な振子模型を与えられ、糸の長さや時間の関係などの問題が出されたのを覚えています。
このようなことは、自由な四国時代の遊びで体験していました。
更に、“地方から数名は採るという枠”に、うまく入れたのではないかと思います。

~開戦と食糧事情

東京は、四国時代も夏休みによく帰っていたので、何の違和感もなく都会の生活に溶け込みました。
日本橋の実家から学校までは約1時間、入学時には既に戦争が始まっておりましたが、特に不自由を感じることはありませんでした。
徐々に物が無くなっていく感じで、気がついたら“不自由だな・・・”という感覚でした。

~犬を飼う

学校の寮生活でも、実際には次第に食事の量が減って行くのでしたが、それにも関わらず、私は犬を飼っておりました。
この犬の食事については、寮友たちが自分たちさえ十分ではない食事量の中から、少しずつ食べ物を分け合ってくれたのです。
自宅に帰る時などは、犬は電車に乗れないため、日本橋まで長い時間をかけ、全行程を歩いて帰りました。
この犬は利口で、戦後にペットブームが始まった時などには、近所の人から“子供を分けて欲しい”とよく言われました。

~戦時中にも拘わらず英語教育

武蔵高等学校はイギリスのイートン校をモデルにした学校で、戦時中にも拘らず英語教育を行っていた珍しい学校でした。
英語は小数クラスで、アメリカンとブリティッシュの二通りの授業がありました。

~マナーに厳しい武蔵高等学校

イートン校は英国王室も通う伝統校で、「武蔵」もそれに習って、マナーに大変厳しい面がありました。
校内を走ることなどもってのほかではありましたが、一方、私にはそんな規則は何のその、もちろん自由に走り回っておりました。

~あわや退学処分

また、友達と喧嘩して怪我を負わせてしまったこともあり、退学処分の対象となる大問題に発展しました、しかし、相手の友が「自分の方が悪いのだ」と証言してくれ、事無きを得たのです。彼とはその後、大親友と呼べる中になりました。
この友人というのは、当時『荒巻の英文法』という中高受験生の必読書があったのですが、
その本の著者の息子で、父親である著者は、特別に招聘されて武蔵高校で教鞭をとられておられました。

~自由な校風

規則やマナーは厳格であったのですが、今のように指導要綱やカリキュラムに縛られることはなく、授業でも『今日は暖かいので外に行こう』などと、自由な教育方針でした。
外は外でも『豊島園へ行こう』となると、もう授業にはならないことはわかっています。
しかし、そんな場合でも先生はもう諦め半分で、何も言われることはありませんでした。

~自由と自己責任

次の授業の先生にも、『・・・まだ帰っていないのか?』と言われるくらいでお咎め無し。その代わり、試験を落とすようなことは絶体に許されません。これは「自由は自己責任で考えろ」という教育的指導だったのかも知れません。

~生物の團勝磨先生

東大進学率のきわめて高い進学校だったためか、中学の時から大学レベルの先生に教わっていました。
中でも、作曲家の團伊玖磨氏の叔父で、ウニの発生学で有名な團勝麿先生には、中学一年から生物を教わっていました。
この時の経験がその後、「生物学に進もう」というきっかけになったかも知れません。
とにかく團先生の話は興味深くて面白く、授業もそっちのけで、生物の研究ばかりに明け暮れておりました。

~高宮先生と「山川賞」

また、高宮先生は武蔵の先輩であると共に、担任の先生でもあったので、山川賞を受賞することになった研究の指導者にもなって戴いたことから、その後もずっと長いお付き合いが続きました。
この「山川賞」というのは、今でも武蔵高校で生徒の自主研究に対して授与される賞で、理系では山川賞、文系では山本賞というのがあります。

~“ひらめき”の大切さ

この賞で学んだことは、長い時間をかけて研究するのが良いということではなく、瞬間的な着想、つまり”ひらめき“が有るか無いか・・・に尽きるということです。

~「青酸カリ」

この時は「毒素と酵素」に関する研究でした。
研究の中身を簡単に言えば、毒物が致死に至る時間と量を計算してグラフにすると、毒物の違いがグラフの曲線で判るという活気的なもので、実験に使用する青酸カリを持ち運んでいる時、たまたまあの帝銀事件が近くであり、もし警察の職務質問にでも遭ったら、これで人生も終わるかな・・・と、ドキドキしながら運んでいたものです。

~「生化学」への興味

この研究がきっかけになったのかどうかは判りませんが、その後は「生化学」に強く興味を持ち、そちらに進学しようと思うようになりました。
私は、基本的に“成績の良い悪い”ということには無頓着だったのですが、さすがに進むべき好きな道が決まり、大学の受験を意識するようになってからは、多少勉強をするようになりました。
すると、図らずもクラスで一番をとってしまったのですが、私としては“成績が命”という人たちを憚る思いの方が何故か強くて、それからは自分の成績については余り気にしないことにして、常に或る程度、気持ちにゆとりを持って臨むことにしていました。

~クラス全員が東大に進学

武蔵高校はクラスの全員が東大に進学していました。我々のクラスでただ一人家業を継ぐ為に進学しない人もおりましたが、卒業後彼の事業は大成功、私が薄給の国立大学の職に就いていた時は高所得者になっていました。世の中、自分の才能に邁進、努力する人が成功するんだと納得しました。

~運命のいたずら

東大受験は、やはり高校時代からの思い通り、当然「生化学の学部」を受験するつもりでした。
ところが運命のいたずらでしょうか、出願の当日、師事してきた高宮先生にばったりお会いしたのです。
『いったいどこを受けるんだ?』と先生に訊かれ、「生化学」と答えたのですが、高宮先生は即座に私の言葉を遮って、『東大の生化学には、今良い先生がいない。植物の方には良い先生がいるから、そちらを受験しなさい!』と、強く助言をして下さったのです。
・・・もちろん私は、そのまま素直に願書を書き換えたのです。
しかし、植物のことなど何も知りません。ただ良い先生がおられるということだけで出願したのです。

~分類学の教授を怒らせ、入学阻止にあう

そんなわけで、試験の時に植物学ではとても重要な「イチョウとソテツ」に関する問題が出題されたのですが、それに対して『胃と腸』の問題に取り違えて答えた結果、「分類学」の教授をいたく立腹させてしまいました。
その教授は全力で私の入学を阻止するため、「植物」を受験する学生の採点については、「植物の点数」を倍にして計算するなど、あらゆる手段を講じたらしいのですが、物理と化学の点数の方が高得点であったため、「植物学」の教授の意に反して合格してしまいました。おまけに入学後、更にその教授の怒りを逆撫ですることになったのは、従来の好奇心がまた頭をもたげてしまい、「植物学科」に入学したにもかかわらず、植物学ではない研究ばかりすることになってしまったからでした。

~撮り溜めた写真が500円で!

この時代は、ただ講義を聴いてはそれを実証するくらいで、大した研究をしていたわけではありませんでしたが、ただ、植物に関することで、とても幸運なことがありました。
当時、写真に興味を持った時期があって、五月祭に自分が撮り溜めた植物の写真を展示したところ、業者がやって来て、全ての写真を五百円で買い取りたいと言って来ました。
その頃丁度、教育用スライドというものが流行していたらしく、世情に疎い私は、これ幸いと“相手の言い値”で売り払ったのですが、業者はそれらの写真を教育スライドにして、それ以上に多くの利益を上げたと聞いて、貧乏学生にとっては悔しい思いをしたものです。

~ガラス職人と高級魚の“どんぶり”

研究室にはよく、実験器具を作る腕の良いガラス職人が来ていました。
この人がよく鮨屋や食堂に連れて行ってくれました。
しかし、鮨屋では『学生の分際で鮨など早すぎる!』と言って、鮨は食べさせてもらえず、その代わりに、余った高級魚で大盛りの丼を作ってくれたので、これがまたとても美味しく、大変満腹にさせてもらいました。
このガラス職人さんには大変お世話になり、この人の技術でないと作れない実験用の特殊な器具を作ってもらいました。
この人の技術はアメリカでも評価され、結局、請われてアメリカにさえ行ってしまうほどの名人でした。
日本人の器用さと職人魂は、既にこの時代でも世界で評価されていたのです。

~ドイツ語・英語、そしてフランス語も!

大学院でも、やはり興味のあるものだけを熱心に研究しておりました。
この頃は外国の研究論文に興味を持ち始めていたのですが、ドイツ語、英語については何も不自由は感じられないものの、時間もあることだからと、この際にフランス語もやっておこうという気になりまして、アテネフランセに通い始めました。

~最優秀賞の特典は“フランス留学”

通い始めて一週間ほどもしましたら、フランス語も何とかできるようになりまして、選抜試験というものが丁度あったので試しに受けてみると、結果はなんと“最優秀賞”で、特典はフランス留学でしたが、大学院の方も忙しくなりそうなので渡仏はやめることにしたところ、代わりに『フランスの地理を学ぶ講座があるので、如何ですか?』などとも奨められましたが、それが私の今後の研究に結びつくとは思われないので断りました。

~後で役に立った「ラテン語」

アテネフランセの方としても、他の学生たちへの対面もあるのか、『それではラテン語の講座はどうですか』と更に喰い下がられてしまい、結局“ラテン語”なら今後に役立ちそうだと思い、ラテン語を学ぶことにしたのですが、幸いこれはその後の「植物学の研究」にとても役立つことになりました。

~美味しいものを食べるにも、その国の言語を知らなくては・・・

若い研究者にいつも言っているのですが、出来る時に出来るだけ他国の言語を学んでおくということは、非常に重要なのです。そうでないと学会などで外国に行った時、美味しいものも食べられないでしょう。
最近の若者からは、『先生、日本では、日本語で世界中のものが食べられますよ』というようなことも聞かされる今日この頃ですが、思えば日本も豊かになったものです。

~高知出身の牧野富太郎さん

大学院時代には、私と同じ高知の出身で、独学で植物学者になられた牧野富太郎さんの話を、先輩教授からよく聞かされたものです。
牧野さんは正式な東大の教授ではなかったので非常に貧しく、その上無類の酒好きでしたから、しばしば東大の研究備品の顕微鏡を質に入れては、他の研究者たちを困らせていたと聞かされました。
たとえ極貧の中にあっても失うことの無かった“好きな酒と植物への情熱”は、今の若者にも見習ってもらいたいものです。

~恩師田宮博先生の“助け舟”・・・

私の大学院当時も、家からもらうお金は微々たる物で、その大半が研究費や飲み代と食事代に費やされておりました。そんな或る日、「徳川生物研究所」の所長をされていて、私の指導教授でもあった田宮博先生に呼び出されまして、“研究所の給料日に、ウィスキーを一本持って来なさい”と言われたので行ってみたところ、私に給料が出ておりました。
私が研究費を自腹で出しているのを見かねて、わざわざ給料を出しておいてくださったのでしょう。

~「徳川生物研究所」のこと

「徳川生物研究所」というのは、尾張徳川家19代当主、徳川義親公爵によって1918年に設立され、創設期の生物学者たちの顔ぶれは、日本生物学史に残る方々ばかり。
何故これほどの研究者たちが集められたのか、後年聞き及ぶところによると、当時、帝国大学教授の3倍の給料を出していたとのことなので、多分、研究費についても破格の金額だったのでしょう。
いずれにしても1970年に閉鎖されるまで、この研究所は日本の生物学の分野に多くの話題を提供し続けて来たのです。

~戦後の食糧難とGHQ

「徳川生物研究所」の恩師である田宮先生が研究されていたのが、後に私とも深い関わりのある「クロレラ」でした。
戦後の日本は大変な食糧難で、特に不作の年が多いところへ、外地から復員兵が一度に大量に帰国することで生じた人口増加によって、食料が極端に不足していたのです。
普通なら大勢の人々が餓死するかも知れないような状況の年もあったのですが、その年は幸いGHQからの余ったパン粉などの支給によって、辛うじてなんとか救われたのですが、このGHQからの支給を無償援助として、日本政府は感謝の気持ちを国会の感謝決議で表明したほどでしたが、なんと翌年アメリカは、しっかりとその分“請求”して来たのです。

~田宮博先生の“クロレラ研究”

毎年そんな状況にあって、アメリカからの食料輸送は日本にとっては大変な負担でした。
しかも国土が狭いところに急激な人口増加となってしまい、とは言え直ちに稲作を増やすことも難しく、そこで注目されたのが“クロレラ”だったのです。
GHQの試算だと、米の十倍の生産量が見込まれるということで、これを代替食料として利用出来ないものかと発案されたのです。研究費用はアメリカが持ってくれました。
その研究の指導をされておられたのが田宮先生でしたが、私はと言いますと、研究所から給料を頂いていたにも関わらず東大に残り、クロレラの研究はせずに別の研究をしておりました。

~突然の給料ストップ

或る時、いつものように給料を受け取りに行くと、事務長から『今日からあなたは東大の助手ですから、ここでは給料は出せません』と言われまして、私としては東大で助手になったのかどうかも知らされておらず、どうすればいいのかを事務長に訊ねたところ、今度からは東大で給料を受け取ることになったという話しなので、その後は一段とこれまで通りに勝手な研究をする生活を続けられることになりました。

~「東京大学応用微生物研究所」

その給料の“受け取り先”というのが、東大の「応用微生物研究所」でした。
この応用微生物研究所は、1953年に「東京大学付属研究所」として創設され、微生物学の研究を目的としておりましたが、1993年に「分子細胞生物学研究所」に改組されました。

~“沖縄泡盛”の復活

この東大の微生物研究については、戦前から日本国中の菌の株などがカルチャーコレクションとして集められておりました。
この“カルチャーコレクション”の中に、全て戦火で消失して“再醸造は無理・・・”と言われていた「種菌」があったのです。この発見をもとに復活した“戦前の沖縄泡盛”の再生には、この“種菌”の寄与があったのです。
現在でも、東大の購買部で人気の焼酎には、この菌が活躍していると聞き及んでいます。
“カルチャーコレクション”については、後ほどまた触れたいと思います。

~給料日にしか来ない研究者?

やがてついに“給料日にしか来ない研究者がいる・・・”ということに研究所長が気がついて、とうとう私に呼び出しが掛かりました。
私としては“自分の研究”を続けているだけのことで、所属がどこかとか、給料がどこから出ているかといったことについてはまったく無頓着でしたから、その辺の事情を問い質されても、『一体どうすればいいのか、わからないのですが・・・』と答えると、『とりあえず来い』ということになり、その結果、“研究所の中で、研究の出来る場所を探す”ということになりました。
結局、恩師田宮先生のもとでのクロレラ研究をきっかけに、応用微生物研究所でもクロレラ研究となり、その後も現在に至るまで、クロレラを始めとして「微細藻類の研究」に携わっています。

~東大生は全員優秀か・・・?

研究所や教授時代には多くの人との出会いがあり、またこの頃は、東大の大学院生の指導もしておりました。
一般に東大の学生というのは、元々優秀な人だと思われがちですが、実際には全員がそうではないと思います。
但し、どのクラスの中にも2~3人は、天性の優秀さと特殊な才能を持っていると思われる学生がいたものですが、あとの学生たちは、血の滲むような努力と、奇跡的に幸運な環境で進学できた人たちなのだと思います。

~特に記憶に残る二人の学生

院生の中で思い出に残るのは2人の学生で、一人の学生は実験の才能がずば抜けており
中学、高校時代から実験が好きだった私も驚くほど実験がうまく、彼の綿密な機材設計と手順には、度々驚かされたものです。
もう一人の学生は計算能力に優れており、或る時、植物の光合成の仕組みの計算だったかを、2、3人の院生と共に解いておりましたが、夜中になってもいっこうに解けず、やむなくその日はあきらめて帰ったのですが、翌朝、その院生が私の顔を見るなり、「先生、解けました!」と言い放つではありませんか。
「どうして解けたんだ?」と問い質したところ、昨夜はあの後、終電車を乗り越したままずっと計算を解いていたということでした。
今では多くの教え子たちが各大学で教鞭をとり、よき指導者として活躍しておりますが、特に私の記憶に残るこの二人の学生も、現在もそれぞれの分野で大活躍しております。

~家内との出会い

「応用微生物研究所」時代の一番の出会いは、“家内”と出会ったことでした。
家内は東京薬科大を卒業した後、応用微生物研究所の薬学出身の教授のもとに来ていたのですが、たまたまこの部屋が私のいた研究室の隣だったのです。
彼女は薬学に秀でていたこともあり、今日に至るまでずっと一緒に仕事を手伝ってもらっています。

~理想の研究パートナー

当時としては珍しい“恋愛結婚”と言えるかも知れませんが、研究者同士、各々の興味の対象も同じで、同じ目的に向かって進み、共に書いた論文も多く、夫婦共同研究者としてなかなかの理想のパートナーに巡り会えたと思っています。
但し、夫婦共同研究の場合には、例えばカリフォルニア大学ではルールがあって、夫婦で同じポジションにつくことが出来ません。
従って実際に働いたとしても正式な立場としてではなく、家内は無給でした。
逆にジョンズホプキンス大学ではそんなルールはないため家内は有給で、私を招聘してくれた教授の研究の手伝いなどをしておりました。

~新田義貞一族の末裔

家内の実家は埼玉県大宮市、新田義貞一族の末裔で代々医者の家系です。広大な土地を擁し、家の文所の研究で学位を取った人が何人もいる、由緒正しい家柄です。
豊臣秀吉の刀狩や太閤検地に協力した功績に対する秀吉本人の“感状”が現存するほどの古い家柄でもあり、今更その家系を絶やすことは出来ませんでした。
また、家内には弟と妹がおりましたが若くして他界していたため、私たちの結婚当初から、我々夫婦に子供ができたら、そのうち一人は家内の実家の姓を継がせるという約束をしておりまして、実際のところ現在、私たちの長男は家内の実家の姓を継いで、医師として活躍しております。
次男の方は工学部の出身で、動物相手の研究を続けております。
どうやら二人とも“蛙の子は蛙”で、やはり親の血を受け継いでくれているようです。

~結婚式と新婚生活

だいたい研究者というものは、なかなか生活が安定しないもので、安定した給料がもらえるようになるまで結婚はしないつもりでいました。
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家内も同じ研究者だったのでその立場も事情もよくわかってくれており、特に問題はありませんでした。結婚式は虎ノ門の共済会館で行いましたが、とにかく酒飲みばかりが集まったような状態で、式場からはこれ以上出せないと断られるくらい飲みました。
家内の一族はあまり飲まない人が多く、大変驚かれたことでしょう。
新婚旅行は熱海から箱根を回りました。
知り合ったときから目指すものが同じで研究に打ち込んでいたため、結婚したからどうのこうのという特別のこともなく、毎日二人は黙々と、ただひたすら研究を続けて行く・・・という毎日でした。

~苦難の渡米準備

子供が生まれてからも、またアメリカでの留学時代も、一諸に研究を続けておりました。
当時アメリカでは1ドルが360円くらいの時代でしたから、自費で渡米して研究をするには、1年分くらいの給料を貯めなければならず、家内と息子の渡航費用までを入れると莫大な金額になり、留学するのは現実的に不可能だったのですが、“フルブライト奨学金”を得ることが出来たお蔭で渡米が可能になりました。
この頃は、生活についてまるで省みない私の自由奔放さに、家内は相当な苦労をしていたのだろうと思っています。

~米国留学を救った祖父の東洋医学

そんな状況を乗り越えてやっと始まったアメリカでの生活でしたが、家内は食べ物が体質に合わなかったのか体調を崩してしまい、病院に行くことになりました。
すると病院からは手術が必要と言われてしまい、途方にくれていたところ、ふと祖父が作っていた東洋医学の薬を思い出しました。
早速、東京へ依頼してその薬を送ってもらい試したところ、なんと家内はこの薬であっという間に治ってしまったのです。
あの時、この薬のことを思い出さなければ、恐らくアメリカでの研究半ばで治療のために東京に戻らざるを得ず、今とはまた違う道を歩んでいたかも知れません。

~家内に感謝

アメリカからの帰国後は、年に7~8回の海外出張の上、研究所や大学を忙しく飛び回る毎日で、家のことは家内に任せきり、特に高齢の両親が亡くなるまでの一番大変な時期にも、何ひとつとして家内を手伝うことが出来なかったのは実に申し訳なく、本当に有り難く感謝しています。

~植物科学の英文専門誌を発行 (PCP Plant and CELL Physiology)

或る時、田宮先生が、“学術誌”を出したいという話をされました。
早速、研究仲間が集まって出版したのが、“PCP Plant and CELL Physiology" という植物生理学会発行の英文誌です。

~国際的な学術専門誌に成長

この学術誌は1959年から刊行されている国際誌で、インパクトファクター(文献引用影響率)は4,978(2013年)まで上昇し、植物科学関係のトップ6誌による共同宣言に加わるなど、世界の植物科学に欠くことのできない専門誌として、今日でも国際的に認められています。
自分で編集している手前もあり(都合上)、いささか内心忸怩たるものがありましたが(僭越の誹りはもとより覚悟の上で)、第1号の巻頭には、私の論文を掲載させていただきました。

~各大学や国会図書館に必ず常備

この雑誌は千部ほど刷り、海外の主な研究所に配りましたが、その反響は大きく、現在も各大学、国会図書館には必ず置かれていて閲覧が出来ます。
特にGHQは、英文の学術誌を出すことは良い事だとして、資金援助をしてくれました。

~資金不足に悪戦苦闘の発行作業

しかし植物生理学会は貧乏所帯とあって、知り合いの印刷屋さんに頼んではみたものの、ただ同然の仕事なので、急な仕事が入れば後回しで、少しでも早められればと不慣れな活字組などを手伝うと、活字が全て逆さまで、却って余計な時間をとる羽目となったりで、それはもう散々なものでした。
その一方で、家内には世界中の研究所に発送する作業の手伝いをして貰い、大変な負担をかけてしまいました。

~「光合成文献誌」発行と、インターネットなど無い時代の工夫

こんな苦労を体験するかたわら、その上更にまた、「光合成文献誌」までも出版したのです。
しかし当時、世界中で発行されている文献を入手することは至難の業でした。
何しろ今と違いインターネットなどありません。
図書館自体もそんなに充実してはおりません。つまり、何処にどんな論文が出ているのか、知りようが無かったのです。
せめてどのような論文が有るのかだけでも判れば、図書館にあたることが出来る筈なので、著者とタイトル、そして要旨だけを一覧にした雑誌を毎月発行することにしたのです。
論文を見つける苦労は、研究者同士、皆同じでしたから、この雑誌は相当役に立ちました。

~研究資金不足を積極性で支えてくれた助手の大浜民子さん

この雑誌の発行に活躍してくれたのが、私の研究室にいた大浜民子さんです。
大浜さんは大阪の箕面出身で奈良女子大を卒業、大阪の女学校の先生を経験された後、東大に入り直したという努力家でした。
私のもとでは助手でしたが、その後、いきなり教授に抜擢されるほどの実力ある方でした。

当時、研究者はそれほどふんだんな資金に恵まれていたわけではなく、高価な試薬などは容易には手に入らないために、先端の研究が思うように出来ないことも多かったのです。

そこで私が、『研究に必要な素材は自分たちで作りながら、何とか外国に負けないレベルの研究をしようではないか!』と提案すると、大浜さんは直ちに『やりましょう!!』と応えて、率先して積極的に動いてくれる人でした。

  • 自宅は日本橋、母は当時珍しい女性歯科医
  • 父のドイツ語
  • 「重遠」の名の由来
  • 「宮地姓」の由来
  • 多忙な母、寡黙な父
  • “放浪癖”と“ねえや”
  • 百貨店の火事と屋上ライオン動物園
  • 百貨店のビスケットで腹ごしらえ
  • 祖父の上京・・・母の巧妙な仕掛け
  • 欲しかった自転車が・・・
  • 3日がかりで愛媛県八幡浜へ
  • 黒潮の海と幸せな日々
  • またまた“持ち前の好奇心”が・・・
  • 祖父の蔵書
  • 祖父の配慮?・・・「孝経」
  • 難行苦行の漢詩、漢文
  • 祖父が選んでくれたキリスト教会の幼稚園
  • 『施し』という教え
  • 海を見下ろすミカン畑、そして自転車
  • 坂道の先は海に面した絶壁・・・!
  • 健気な幼心と初の挫折
  • ライト兄弟よりも早く飛行原理を発見していた「二宮忠八」
  • 独学で医者になった祖父の偉大さ
  • 祖父は内科医
  • 祖父と漢学の素養
  • 祖父のドイツ語
  • 祖父の信念と様々な事業
  • 元祖「愛媛みかんジュース」の誕生
  • 毎日“すき焼き”
  • 牛乳、バター、シュークリーム
  • 祖父の死と、冷静な父の一言
  • もう一人の祖父について
  • 二等兵から将校に・・・日露戦争で異例の大出世
  • 日本を勝利に導いた祖父の密かな行動
  • 努力家の祖父
  • 弁当持参への憧れ
  • 体育に熱心な小学校
  • 喧嘩ランキング1位
  • 母が喧嘩の尻拭い
  • 腕力と冷静さ
  • 助けてやったのに!
  • 豪華弁当に魅かれて・・・
  • 牧野先生のこと
  • お茶の水女子大出の祖母
  • 東京の親元へ
  • 入学試験
  • 開戦と食糧事情
  • 犬を飼う
  • 戦時中にも拘わらず英語教育
  • マナーに厳しい武蔵高等学校
  • あわや退学処分
  • 自由な校風
  • 自由と自己責任
  • 生物の團勝磨先生
  • 高宮先生と「山川賞」
  • “ひらめき”の大切さ
  • 「青酸カリ」
  • 「生化学」への興味
  • クラス全員が東大に進学
  • 運命のいたずら
  • 分類学の教授を怒らせ、入学阻止にあう
  • 撮り溜めた写真が500円で!
  • ガラス職人と高級魚の“どんぶり”
  • ドイツ語・英語、そしてフランス語も!
  • 最優秀賞の特典は“フランス留学”
  • 後で役に立った「ラテン語」
  • 美味しいものを食べるにも、その国の言語を知らなくては・・・
  • 高知出身の牧野富太郎さん
  • 恩師田宮博先生の“助け舟”・・・
  • 「徳川生物研究所」のこと
  • 戦後の食糧難とGHQ
  • 田宮博先生の“クロレラ研究”
  • 突然の給料ストップ
  • 「東京大学応用微生物研究所」
  • “沖縄泡盛”の復活
  • 給料日にしか来ない研究者?
  • 東大生は全員優秀か・・・?
  • 特に記憶に残る二人の学生
  • 家内との出会い
  • 理想の研究パートナー
  • 新田義貞一族の末裔
  • 結婚式と新婚生活
  • 苦難の渡米準備
  • 米国留学を救った祖父の東洋医学
  • 家内に感謝
  • 植物科学の英文専門誌を発行 (PCP Plant and CELL Physiology)
  • 国際的な学術専門誌に成長
  • 各大学や国会図書館に必ず常備
  • 資金不足に悪戦苦闘の発行作業
  • 「光合成文献誌」発行と、インターネットなど無い時代の工夫
  • 研究資金不足を積極性で支えてくれた助手の大浜民子さん