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交友録

連載:第二回
宮地重遠、アンドリュー A. ベンソン博士に出会う

1955年、宮地重遠は或る国際会議(国際酵素シンポジュウム)に出席した。
宮地がこの会議の開催に誰よりも胸を弾ませていたのは、この会議が戦後初の日本で開催される国際会議であることにも増して、「海外から集まる学者たちと交流できる」という期待からであった。

当時、宮地は東京大学理学部大学院の学生で、この国際会議開催の手伝いに駆り出されていたのだが、語学に堪能なこともあって、トヨタ自動車からの提供を受けた送迎用の乗用車を使った、羽田空港への来賓出迎えも彼の役目のひとつであった。
その点では、宮地は自分の期待通りに、誰よりも多く海外からの学者たちと交流する機会を持てたことになる。

会議の当日、会場の人混みでとりわけ宮地の気になったのが、指導教官や海外の学者たち大勢が取り囲む、一人の長身の外国人学者の存在であった。
やがて宮地は、その人物が『植物の光合成における二酸化炭素の固定に関する研究』で有名な、カリフォルニア大学バークレイ校のアンドリュー A.ベンソン博士だということを、人づてに知るのである。
そして実はその一方で、かたやベンソン博士はと言えば、羽田空港に黒塗りのトヨタ・クラウンで自分を迎えに乗り付けた青年が宮地重遠であったことを、今年92歳になる今も鮮明に覚えていると答えるのである。

植物は宮地にとっても長年の研究テーマでもあったので、彼は周囲を取り囲む人垣を幾重にもかき分けながらベンソン博士に歩み寄ると、矢継ぎ早に「光合成」と「二酸化炭素」についての質問をぶつけにかかったのである。
いきなり最前列に顔を覗かせた若い日本人研究者の繰り出す薮から棒の質問にも、ひとつひとつ静かな物腰で丁寧に答えてくれたこの米国の学者は、当時、戦後の日本の学者たちが置かれていた貧しい研究環境を察してのことだったのか、別れ際にそっとこの青年に向かい「君、今すぐアメリカに来ないか」と、本場米国での研究生活への誘いを口にしてくれたのである。

思いもよらない誘いの言葉に驚いた宮地は、絶好のチャンス到来に狂喜して、直ちに指導教授のもとへ相談に走った。
・・・がしかし、指導教授の答えは反対であった。日本の頭脳流失を惜しんだのだろう。
それでも宮地はあきらめなかった。やがてその5年後、フルブライトの留学資金を得ると、改めてベンソン教授の招聘に応じたのであるが、それはなんと大学の指導教授の“定年”を待っての渡米であった。
・・・ベンソン博士との出会いと米国留学への誘いから、既に八年の歳月が流れていたのである。

1963年、米国に渡った宮地は、カリフォルニア州サン・ディエゴにある「カリフォルニア大学/スクリプス海洋研究所」のベンソン研究室に身を落ち着けた。
「スクリプス海洋研究所」は、当時既に米国でも有数の海洋生物研究のメッカであり、研究施設としての充実ぶりには目を見張るものがあったが、何よりも宮地が驚いたのは、研究所を取り巻く周辺の自然環境であった。

目を凝らせば何処までも深く吸い込まれそうなカリフォルニアの青い空とヤシの葉を揺らす風、遠くかすむ長い海岸線に打ち寄せるビッグウエーブ・・・宮地にとっては「研究所」というよりも、それはまるで「リゾート」そのものだった。
ベンソン教授はよく言っていた・・・「ここはアメリカでも若い研究者の憧れの場所だ。しかし、ここで遊ぶか、研究するかは、自分次第だよ」 当時ベンソン博士は、数ある自分の研究テーマの中で、大脳の中に存在する硫黄の研究をしており、博士は宮地の「硫黄を含む微細藻研究」との関連性に着目していたようだ。
それもあってか、更にはベンソン博士の公私に亘る親身の研究費援助にも助けられ、新天地での宮地は、微細藻培養の研究を無事スタートさせることになる。

ベンソン博士はまた、宮地本人の研究だけでなく、宮地の家族とその生活にも細やかな気配りをしてくれる、人間的で気さくな人柄でもあった。
一方、地位や名誉などには全く無頓着なところがあって、実は宮地は一度だけ訊いたことがあるのだが、その頃アメリカでもスキャンダラスに取り沙汰され、世間的な噂にもなったことのある『ベンソン・カルビン回路』の研究成果に対するカルビンだけのノーベル賞受賞について、博士自身はどう受けとめているのかを尋ねたところ、ベンソン博士の答えは何事もなかったかのように、
「アメリカではノーベル賞は、欲しい人が、そのための努力をして貰えばいいんだよ」
というものであった。
・・・実に、清々しい言葉であった。

6年に及ぶ米国での研究生活を終え、やがて宮地は日本に帰国する。
宮地は帰国後もベンソン博士とは連絡を絶やさなかった。特に宮地によって世界に先がけて提唱され、1988年に日本での開催が実現した世界初の国際マリンバイオ学会には、誰よりもまずベンソン博士が招かれ、初代マリンバイオ学会長となった宮地との再会を久々に果たしたのは言うまでもない。

今回、宮地がアメリカに出かけた理由は、ベンソン博士のビデオ収録であり、その目的は日本の学者たちへのメッセージとなる談話を、ビデオカメラを通して語り掛けて貰うためである。
と言うのも実は、22年という節目もあって『国際マリンバイオ学会関連シンポジウム』へのベンソン博士本人の出席を学会事務局が要請したところ、92歳という高齢から、海外への遠出は無理として、残念ながら出席辞退の回答が寄せられていたからである。

果たして宮地がビデオ収録のクルーと共に、実際にカリフォルニアの自宅を何年ぶりかで訪ねてみると、久し振りに目の前に立つ博士は、手にした杖にじっと静かに身体を預けて微笑んでいた。

二人の思い出話は尽きることが無く、更に驚いたことには、宮地に現在も自分が続けている研究を見せたいと言って、スクリプスの研究室にロケ隊一同を誘うのであった。
今年92歳の博士は、宮地が研究していた当時のままの研究所で、当時のままにふり注ぐ陽射しと寄せる波の音に包まれながら、自ら老いることなく、今なお新しいテーマに取り組み、日々の研究に若々しく励んでいたのである。

そして撮影当日、ビデオカメラに向かい、ベンソン博士が日本の研究者たちに熱く語り掛けたメッセージで、最後に付け加えた励ましの言葉は、
「・・・科学が目指す究極の目的に向かって、
『Go for it!!!!!!』(突き進め)」
というものであった。

『生涯にわたって研究を続けられる環境・・・アメリカは恵まれているな』
・・・ビデオ収録の傍らで宮地は、分かっていた筈の思いを、今また改めて心になぞるのだった。

 ベンソン博士ビデオ収録
  〜米国ロケ同行取材より
       2010年3月
    宮地重遠プロジェクト事務局 記